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家具に関する旅行記

2000春、韓国紀行7(4):5月3日:ポハンからウルルンへ...

<2000年5月3日(水)> 

 フェリーターミナルは9時頃でないと開かないと分かっていましたが、万一、当日券が売り切れては大変なので、早めに並ぶ事にしました。宿から見ると、沢山の観光バスが駐車されていましたので、少しあせりました。出航の送りの車だけではなく、到着便の出迎えの車もあるようにと、願いました。
 昨日の願いが通じたのか、風もそんなに強くはなく、海もそれなりに治まってきたようです。しかし、『天気晴朗なれど、波高し』の日本海です。油断はできません。

<ポハンの港>
 ポハンの港では、大分待ち時間がありました。それでも無事切符が手に入りましたので、さほど苦にはならない時間です。多くの時間を、待合室の外に張ってあったテントの中の腰掛で過ごしました。そこには自動小銃のような、相当に威力がありそうな火器を傍らに置いた若い兵士2人も座っていました。休暇中と思われる兵士も、勤務中と思われる兵士も軍服を着ていますので、なかなか判断が難しいものです。
 暫く待ったところで、日本語が達者な、30代と思われる韓国の方が寄ってきて、話し掛けてくれました。後で交換した名刺には、財閥系の大会社、三星(サムスン)に勤められているヨン・ジー・パークさんのお名前がありました。そのヨンさんは、

 「昨日出航しましたが、1時間ほど航海したところで、波の高さが3m余りになり、引き返してきました」

 「今日も波が高くなったら、引き返すかも知れませんよ。そうしたら、私はウルルンドへの出張を取り止めます」

 との話でした。

 「ウルルンドは初めてです。折角の機会ですから家族を連れてきました」

 ともお聞きしました。そのお話の後で、小学5年生のお嬢さんが顔を出されました。学制は、日本と同じ6・3・3制です。奥さんもご一緒でした。

 「学校を休ませました。父親と一緒に旅行する時は、許可がもらえます」

 と、ヨンさんは教えてくれました。

<ウルルンドへの船旅>
 車は積めないものの、800人乗りという、結構大きな船でした。スタイルも抜群です。後ろから見ますと、双胴構造の快速船です。『乗り心地もさぞや』と思ったのが間違いでした。散々、船酔いに苦しめられました。船酔いは今回が初めての経験でした。
 出航するや否や、みんな一斉に後方に向かいましたので、こちらもその後に続きました。そこは全面透明の覆いが付いたサンルームのようなデッキでした。椅子とテーブルが用意されていました。みんな椅子だけをこの部屋の縁に移動して、回りの景色を眺めるのが目的でした。暫くは、出航したポハンの港や、それに続く韓半島が見えていましたが、やがて春霞に消されるように、後方に消え去っていきました。
 ヨンさんもデッキに出てきて、暫くは4人で雑談していました。出航して1時間もすると、次第にうねりが大きくなってきました。

 「昨日は、1時間位走って、この辺りから引っ返したんですよ」

 と、ヨンさんが説明してくれました。

 「今日のうねりだと、無事に島に着けるかどう、まだ分かりませんね」

 とも解説してくれました。船酔いが襲ってきたのは、出航して2時間ほど経ってからです。デッキや通路のあちらこちらで、船酔いに苦しんでいる人を見かけました。
 まだその時は、『自分は大丈夫』とタカをくくっていました。しかし、席へ戻ろうとして、苦労をしました。揺れのために歩行がままならず、あっちこっちに捕まりながら席へ戻ったのが、いけなかったようです。不覚をとりました。タオルが身近にありましたので、まだ良かったですが、『外洋ではエチケット袋が不可欠』なことを悟りました。

<ウルルンド到着>
 船酔いのせいで、席で大人しくしていますと、『島が見えてきた』と言う声があがりました。早くも外に出て、カメラを構えている人もいました。私も左側の窓際に寄って写真を撮りました。船酔いで苦しめられただけに、待望の島影です。
 お酒の時の二日酔いと違って、船酔いは不思議です。陸へ上がってしまうと、全くダメージは残っていません。少し腹が減っただけです。
 島に上がると、全員タスキを掛けた小学生くらいの子供達が出迎えてくれました。道路の両脇に整列して、みんなにお辞儀をしていましたので、我々も歓迎された内にはいっていたようです。後で思い起こしてみますと、この島は観光が最大の資源のようであり、小さい頃から、そのことを教えている風でもありました。しかし、これは私の単なる推測に過ぎません。
 宿案内の小旗を持って大勢の人が出迎えていましたが、我々はこれからが宿探しです。ヨンさんの家族も、同じようでした。往きと帰りの切符だけを手に入れて、宿は現地調達の家族旅行のようでした。
 私達のメンバーは、宿を探すまでもなく、向こうからやってきました。宿の若奥さんらしき人が、『うちに泊まりなさい。日本語の分かる旦那がうちにはいます』と言った具合に、我々を宿に案内してくれました。歩いて行ける距離ですが、結構急な坂を上っていきました。5分ほど歩いて、派出所の横を左に上がると、すぐ近くにその民宿はありました。
 一人当たり3万ウォンと一部屋3万ウォンを間違えて差し出しました。ら、慌てて若旦那さんが、

 「全部で3万ウォンです」

 と言って、余分な金を返してくれました。後でお聞きした話ですが、

 「この島に無いものが3つ有ります。その1つが泥棒です」

 と言った、島の暮らしぶりが窺える最初の体験でした。

<4WDのタクシー>
 この若旦那は、運転手も兼ねていました。

 「4時間コースで島の全部を案内します」

 「12万ウォンですが、危険な山道や間道を通りますので、高くありません。是非使って下さい」

 と、勧められました。日本円に換算しますと、1人当たり4千円です。いつ又訪れることができるか知れませので、案内を頼むことにしました。
 交渉が成立しますと、

 「先に交番の所でエンジンを掛けて待っています」

 と言って、喜んで宿を飛び出していきました。そのタクシーは4WD車でした。予め

 「世界一危険なところを通ります。普通の車では通れません」

 と聞いていましたので、なるほどと思いましたが、4WDのタクシーに乗ったのは、今回が初めての経験でした。
 若旦那は大学を出た後、陸地(半島のこと)で働いていましたが、民宿をやるので、奥さんを連れて帰ってきたと話してくれました。

 「日本語を使わなくなって15年近くなりましたので、今は少し下手になりました」

 と、謙遜されていましたが、観光案内に全く言葉の不自由の無いレベルの日本語でした。
 島の道路はまだ完成していない箇所があり、そこからは山道に入ったり、Uターンしました。『世界一危険な道路』は、実際に通ってみて実感できました。

 「最近は50cmほどですが、冬は3mの雪が積ることもあります」

 といった山道は、とても冬場に通れるものではありません。若旦那は、冬に、一番危険なところを通過する時、

 「お客さんは降りて歩いて通りました。私だけが車に乗って通りました」

 とエピソードを語ってくれました。そのことが容易に想像できる険しさでした。『狭く、勾配が急で、しかもカーブがきつく、恐ろしい崖付き』ときています。
 出発が遅かったので、昼食を摂ることができませんでした。お菓子とバナナ1本で我慢しました。どうやら、若旦那の作戦でもあるらしいようでした。途中、外輪山の中にある店に電話して、食事を頼んでいました。そのお店で、山菜ビビンバを食べることになりました。結局、17時を回っていて、昼食兼夕食となりました。
 この外輪山は、九州の阿蘇山を連想させました。茶店と言うかレストランと形容しようか、昼食を摂った店から見渡しますと、周りはすべて山でした。阿蘇山の外輪山を少し小型にしたような景観です。

 「あそこを見てください。雪渓です」

 と言う若旦那の指差す方を見ると、さほど高くはないのに、新緑の中に雪渓が幾筋か残っていました。先ほどの『3mの雪が積もります』と言う言葉が、真実味を持って迫ってきました。
 外輪山に囲まれた盆地に保存された昔ながらの住居は、ログハウスを覆って2重の構造となっていました。冬は二重構造の間が通路になり、『入り口はすべて雪で閉ざされます』とお聞きしました。厳しい冬への備えです。

<夜の散策>
 少し暗くなってから、揃って港付近を散策しました。桟橋付近では市が立っており、この島の特産の薬草や、海産物を売っていました。その場にヨンさんも現れて、

 「海鼠(ナマコ)をここで刺身にして貰って、向こうの店で食べました」

 「一人でチンロを1本飲みました。それで、すっかり気持よくなってしまいました」

 と、笑って話されました。顔は少し赤くなっていましたが、ヨンさんは、結構いける口のようです。ご家族一緒で、そのうち奥さんや、娘さんも顔を出されました。
 時間がたっぷりありましたので、照明が点いた海岸端を歩きました。岩肌を削って作った細い通路です。照明が無い奥まで続いていました。その先は、昼間でないと、ちょっと、しり込みしてしまうような険しさです。
 アップダウンも相当にありました。それでもステンレス製の手すりが完備しており、歩き易くなっていました。道路の取付けのところには、施錠できる扉があり、夜遅くなれば、締め切ってしまうようです。転落事故防止のためでしょう。
 ヨンさんとは、あちこちの店先を覗きながら、話をしました。それとなくこちらを気遣ってくれているようで、嬉しいことでした。

 「私は、明日仕事なので、二人には、島巡りの遊覧船に乗るよう言ってあります」

 と、予定を説明してくれました。

<ウルルンド紹介>
 メモした紙が無くなりましたので、記憶だけで紹介します。若旦那にお聞きしたウルルンドの概況は、人口1万人、車1千台、小学校9校、中学校5校、高校1校です。思ったより人口が多く、学校も多いようです。いくつかの小学校の横を通りましたが、日本でいえば、分校クラスのものが多いようです。
 また、沢山あるものと、無いものを紹介してくれました。沢山あるものとは木、水と薬草、美人等です。5つほど教えてもらいました。木は、火山で生成された島にしては不思議な気がしますが、白檀の名産地です。このことは、白檀加工製品を販売していたお土産店のご年配のご主人からも、お聞きしました。

 「昔から島根県に輸出しています。香りがいいので、お香としても使えます」

 と、穏やかな話しぶりの日本語で教えて戴きました。白檀の加工製品は、家具類のほかにお土産用として、孫の手、櫛、肩叩きなどが並べられていました。袋詰や無造作に括った線香代わりの束もありました。店先の木工用旋盤で実演している店もありました。さすがに木屑から白檀の芳香が漂っていました。うなぎ店の煙と同じような効果があるかも知れません。
 水は全島が岩山であり、木も多く茂っているので納得できました。問題は「美人」です。私の結論から紹介すれば、『かかあ天下』の証明のような気がします。『よそから来た人には、そう言いなさい』と後ろから操られているではないでしょうか?実際に確認したわけではありませんから、責任は持てません。
 無いものの3つは、蛇と泥棒、もう1つは忘れてしまいました。海岸が砂ではなく、砂利でしたので、砂であったような気がします。こちらはそれなりに納得がいきます。公害も無いとお聞きした気もします。
 この島には、熱心なキリスト教信者が多いらしく、至る所で、教会が目に付きました。それも、小さな集落でさえ、3つも4つも教会が点在しています。 どうやら、幾つもの小さな宗派に分かれているようです。立派な教会や、村の集会所といった感じの質素な協会もありました。少ないながら、お寺も有るといいます。こちらはキリスト教のようには、信仰されていないようです。
 

  浦項(ポハン)の宿にて
 香る風部屋に取込み旅の宿

 オンドルの温み微に春の宿

 春の海荒じと願う宿の朝 

  ウルルンドへ向かうフェリーにて
 春の海消ぬ波濤に白き鳥

 五月晴波高くして島遠し

 島影に酔を忘るる春霞

 若草が化粧となりし岩の島

  ウルルンドへ着いて 
 春の海しぶきを避けて鳥の宿

 レリーフを刻み溶岩山萌る

 お辞儀して子らが迎える島の春

  ウルルンドの島巡りにて
 雪渓を残し麓の草萌ゆる

 黄海老根の鉢置かれたる石畳

 島岬染めて春日は落ちにけり

  ウルルンドの民宿にて
 春蘭の窓辺で香る島の朝

2010/08/29 02:08:26

2001冬、台湾旅行記1(6):12月13日(1)台北・忠烈...

<2001年12月13日(木)>

<ホテルの朝食>
 モーニングコールを7時に頼み、8時25分の出発に備えました。今日は半日余り、呉さんが市内見学に案内してくれることになっていました。私が7時25分にホテルを出発する必要があるのは、9時に始まる忠烈祠での衛兵交替を見学する事で、昨日話がまとまっていたからです。昨日呉さんが、
 『明日もう一人増えて、4人で見学する事になります』
と説明していただき、それで、時間を逆算した結果です。ホテルの朝食は、2階にセットしてありました。バイキング方式で、洋食、中華食などが用意されていました。
 旅行の条件は、基本的には『なんにもなし』ですが、朝食だけはミールクーポンを付けて貰いました。早い時間から朝食の場所を探すのが面倒ですし、朝から重たい中華料理は食ぺたい気持になれなかったからです。
 ホテルのレストランは、ネクタイを締めたビジネスマンが目立ちましたが、欧米人と、日本人観光客を多く見かけました。欧米の方のマナーはさすがでしたが、若い日本人グループのマナーは最低でした。大声の日本語で仲間内で話し、他の人の迷惑など、全くお構い無しでした。
 冷たい視線が、私を含めて、多くあったにも関わらずに、この状態が続きました。最初は、厳しい眼つきで睨みましたが、そのメンバーは、全く気に止める人がいませんでした。4人もいれば、1人くらいは気が付く人がいてもよさそうなのに、それがありませんでした。情けない気持になって、それ以後は眼を合わさないようにしました。
 暫く経って、やっと静かになったと思って、その席を見渡すと、そのメンバーは、席を立った後でした。
 そんな気まずい場面もありましたが、朝食はちゃんとしたものでした。ジュース、珈琲、パン、各種の料理、サラダ、フルーツ、いずれも味、種類、彩りも十分でした。ウェイトレスの方も愛想が良く、中国語ではなく、全て英語で対応してくれました。

<都心のサッカー場>
 モーニングコールの前に起き出し、十分な余裕がありましたので、朝のテレビを見ながら時間を調整しました。昨日、呉さんに
 『8時25分前には出発準備をしておきます』
 と、話しておきましたので、早めに出発準備をしてロビーに降りました。定刻の10分程前に呉さんがホテルのロビーに迎えに来てくれました。
 『ヒルトンホテル付近は駐車禁止で、取細りが厳しいので、マイクロバスは、一回りして戻ってきます』
 とのことでしたから、一緒に玄関前で待ちました。予定より少し早く、次のホテルに向かいました。
 次のホテルでは、女性ばかりなので、少し待たされました。それでも、最初のホテルを早く出ましたので、予定通りの時間です。マイクロバスで向かう途中のことです。呉さんが、
 『右手の建物をご覧ください。国際試合の規格に合わせたサッカー場です。でも全く使用されていません』
 と、説明してくれました。続いて、
 『その理由は、松山空港の発着便の影響で、審判のジャッジが掻き消えてしまうから、試合に使えないからです』
 とも説明してくれました。ついでに、
 『手入れをしていませんので、芝生が30cm以上には伸びているでしょう。直ぐに試合をしようと思っても、出来ません』
 と、駄目押しされました。ウン万人収容できる、立派な外観を持った都心部のサーカー場でした。

<忠烈祠、衛兵交替>
 『忠烈祠は、日本でいえば靖国神社に当たります』
 と、呉さんが最初に説明してくれました。1時間おきの衛兵交替があり、9時の衛兵交代に、各地から大型バスからマイクロバスまで、一杯集まってきました。日本からの男子高校生の団体もありました。早過ぎず、遅れもせずに衛兵交替を見ることができました。
 衛兵交替は、5名単位で行われました。正門入口の両側を護る2名と、記念館の両脇を護る2名などです。あと1名は、記念館、忠烈祠の中だったようです。身長170cm台で、体重なども全て揃えてあると言います。ただし、これは全ての国の衛兵に共通した事かも知れません。
 『衛兵に触ってはいけませんが、横に並んで写真を撮るのは構いません』
 と言って、呉さんが私のデジカメで撮ってくれましたが、残念ながら、カメラ不調で、撮影できませんでした。この後、
 『私はここで待っていますから、衛兵の後ろに付いて、交替儀式を見学してください』
 と、勧められました。入口を護っていた2名と、その交替要員、その先導の5名で隊列が進みました。その脇には2、3名の迷彩服などの先輩衛兵と思しき人が付き添いました。細かい所作をチェックし、技術伝承をしているようでした。銃剣を着けたままで、同じタイミングをとって、指先でくるくる回したりと、色んな儀式を見ることができました。中々の迫力でした。呉さんの話ですと、
 『今の季節はいいですが、真夏は非常に大変です。汗が目の中に入って、みんな涙を流しています。それでも瞬きをしたり、自分では涙を拭いてはいけません』
 『こんな時は、付き添っている先輩がハンカチで拭いてくれます』と説明してくれました。こんな苦労も伝承されていくのでしょう。

<台湾の徴兵制度>
 呉さんは更に続けて、
 『衛兵は3軍が交代で出し合うことになっています。陸軍、海軍と、何でもできる軍です』
 と、補足してくれました。『何でもできる軍』とは、時の状況に応じて、陸軍でも、海軍にでも従事できる訓練を受けた人達のようです。
 『自分の息子は、堆薦で国立大学に入ることができましたが、本人の強い希望でアメリカ留学の方に決めました』
 と、真剣な顔で語ってくれました。
 『兵役義務を果たすため、今軍隊に入っています』
 とも語ってくれました。兵役義務を果たさなければ、海外留学が認可されないことから、
 『息子は、進んでその義務を果たすと言いました』
 の言葉には、平和ボケの日本人の一人として、次の言葉が出ませんでした。また、
 『昔は陸軍、海軍、空軍で兵役期間が違っていましたが、今は全て2年になりました』
 とも付け加えてくれました。少しだけ、兵役期間が短縮された様です。

<圓山大飯店>
 圓山大飯店は、各国の首脳が泊る、台湾、台北きっての高級ホテルです。
 『故宮博物院への途中に当たるので、立ち寄りましょう』
 と言って、呉さんが案内してくれました。21年前の旅行の時も『圓山』の名前が入ったホテルだった記憶があります。このホテルだったか、圓山もどきの2流ホテルだったかは、記憶にありません。多分、2流ホテルの方だったでしょう。
 ホテルのロビーはさすがに一流を思わせました。お手洗い休憩だけをとって、次の故宮博物院へと向かいました。

<故宮博物院>
 21年前の時にも訪れたので、今回が2回目になります。その時にも、『中国大陸から蒋介石が台湾に運んだ貴重な品々』程度の知識か、なかっものの、観光の1つの柱にしていました。
 しかし、どの文物がその時に展示してあったかは、記憶に残っていません。6、70万点あると言われる膨大な収蔵品は、展示物入れ替えの度に見学しても20年近くを要すると言われています。1点豪華主義ではなく、全点豪華主義なので、記憶に残らないのが、当たり前なのかも知れません。
 今回は、ガイドの呉さんが詳しく解説してくれましたので、前回よりは記憶に残るかも知れません。しかし、この後、若い時の記憶が維持できるわけは無いので、結局は一緒かも知れません。その意味でも、この旅行記が、将来の記憶催眠に役に立てばと思っています。
 呉さんの説明の概要と、強く印象に残った文物をいくつか書き記しておきます。
?乾隆帝の帽子架(焼物)
 乾隆帝が
 『何でこんな匂いのする帽子を自分にかぶせるのか!』
 と、部下に怒りました。夏場などで、自分がかぶった帽子の汗の匂いですが、皇帝はそんな事はお構いなしです。これを受けて、部下が、下部で香が焚ける帽子掛けを造りました。
 透かし彫りのカラフルで豪華な帽子掛けです。日本の『なんでも鑑定団』に出したら、いくらの値段でしょうか?ウン億は下らないでしょう。
?大正天皇の妃の誕生祝の品、屏風(メノウ等)
 『誕生日のお祝いに皇帝が作らせましたが、日本へ運ぶ途中、台風に遭って船は戻ってしまいました。それで、そのまま中国に残る事になりました。もし、台風に遭わなかったら、今は日本の宝になったはずです』
 と、言うその屏風には、ものすごい大きさの翠の玉がふんだんに嵌め込まれています。
?佐藤栄作夫妻の贈り物の唐三彩(焼物)
 1mほどの唐三彩の像の添え書きに「日本、佐藤栄作ご夫妻寄贈」と記されています。中国から寄贈を受けた焼物を
 『台湾に置いておくのが相応しい』
 といって、返還されたそうです。故宮博物院の文物で、唯一日本から寄贈された品物として、特別のケースで展示されています。呉さんは、
 『実は余り骨董価値が高くない品物です』
 と、裏話をしてくれました。
?象牙の塔など(象牙、水牛等)
 『親子2代で製作した細工はいくらでもあります。これは、おじいさんの代から三代かかって作り上げた象牙の細工です』
 と言って、ガラスの展示箱を少し揺すってくれました。なんと五重塔の軒先に吊るされたリングが揺れました。全て1本の象牙で出来ていて、2代目、3代目で失敗したら、又、最初からやり直しです。
?女官100人の血で染めた壷(焼物)
 明かりにかざすと、赤い模様が瓶の口のところに浮かび上がる。女官100人の血を採って彩色したと伝えられます。呉さんは
 『皇帝はなんと残酷な事をしたんでしょう』
 とも付け加えました。
?翠玉の白菜(翠玉)
 見事な翠玉の細工なので、日本にも紹介されています。下の部分が白、上の部分が翠の玉、バッタが1匹づつ。実は、皇帝に対する憂える部下の諌言でした。
 『あなたを倒そうとする部下がいます。大きな役の一人と、小さな役のもう一人です』
 皇帝は、玉は余りの見事さに見惚れたものの、この宝石に込められた諌言を理解できず、皇帝はやがて部下に滅ぼされたとされます。
?蝙蝠100匹の壷(焼物)
 『日本では蝙蝠を不吉な動物としていますが、中国ではおめでたい動物の象徴です』
 と、呉さんが解説した壷には、ちょうど100匹の蝙蝠が描かれていると言います。数え始めて、途中で諦めました。
?七福紳の木像(自然木)
 顔、姿、杖など完璧なまでの自然造作による木像です。流木でしょう。杖がしっかりと手に持たれていますが、偶然に蔦のようなものが親木に取り込まれた風に見えます。物理的に後から付け加える事が出来ない造作をしています。
 ほかに、細密画、文字、など10くらいまで採り上げようと思いましたが、おめでたい8の数字でお終いとします。後は、写真資料をご覧頂下さい。

<お茶の店、そして昼食>
 昼食の前にはお決まりのお土産店に立ち寄りました。昼食の店はその隣です。
 『お茶の専門店がありますので、昼食の前に是非、説明を聞いたうえで試飲してください』
 と、呉さんに勧められては、断ることはできません。お茶は最初から買おうと思っていましたので、その気で説明をお聞きました。
 『台湾は暖かいので、冬を除いて一年中、お茶が摘めます。しかし、夏や秋に摘んだお茶は美味しくありません。いいお茶は、春先に摘んだお茶だけです』
 と言って、飲み比べをさせてくれました。
 『いいお茶は、12回くらいは出すことが出来ます。朝煎れて、一日中お茶が楽しめます』
 とも説明がありました。烏龍茶を中心に杜仲茶、ジャスミン茶なども煎れてくれました。手提げ袋一杯お茶を買い込んで、昼食が用意されている場所に移動しました。近いと言うより、同じ店の中のような場所でした。
 今日の昼食は、旅行案内にも書いてあったように、飲茶料理です。次から次に出される饅頭、餃子などを楽しみました。私は飲茶より麦茶の方が良かったので、別料金でビ-ルを1本頼みました。『コップ1杯をサービスします』と言われれば、つい、誘い水になってしまいます。餃子類は蒸したものが多く、油を多く使っていないので、くどくは、ありませんでした。ビールのつまみとしてもぴったりでした。

<おきまりのお士点店>
 呉さんは
 『決められた予定では、もう一軒、免税店を案内する事が決められています』
 と言って、スケジュール表を確認されました。
 『台北では一番大きな免税店ですから、たいていのものはあります。買わなくても結構ですから、品物を見ていってください。そこで解散します』
 と、今日の予定の締めくくりを説明してくれました。その店は、大理石や玉、焼物、家具など高級品から、食品も多く備えてありました。
 買わない積りでしたが、つい、お土産用の獅子の置物や、ブランドのボールペンなどを買いました。店にいたのは10分か15分くらいで、早々にホテルに戻りました。地下鉄駅で台北駅まで一駅なので、地下街を歩いて台北駅にたどり着きました。兎に角歩いてみる事が、距離感や方角、街の構造などを知る早道です。

<夕食をキャンセルして龍山寺へ>
 華西街夜市に近くというより、その一角に当たる昨晩の店が良かったので、今晩もその店に行くことにしました。ところが、呉さんの話だと、私のツアーコースには今日の夕食がセットになっていると言う。泊ったヒルトンホテル内での夕食です。それで、呉さんに迷惑をかけないよう、
 『旅行者の都合で夕食をキャンセルします』
 と、具さんがメモしてくれた横に、サインをしておきました。

<再び華西街夜市で晩酌>
 昨日の店を探して晩酌をしました。夕食も兼ねてです。美人で愛想のいい女将さんが覚えていてくれて、同じ席で、同じようにして料理と飲み物を頼みました。ショーケースには剥き身の蛙の足があって、大分食欲をそそられましたが、結局、黒鯛のような魚と、蜆と野菜の方にしました。
 4、5人の地元グループの人は、昨日とは少し席が入れ替わっていて、鍋物を囲んでいました。飲み物は、それぞれに違っていて、ボトルごと卓上に置いてありました。どうやらキープボトルのようです。
 余り大きくない瓶に入った透明の飲み物は、小さなグラスでちびりちびりと飲まれていました。アルコール度の高い蒸留酒のようでした。焼酎のような地酒ではないかと思われる、普段、日本で見かけることがないお酒でした。
 魚は尾頭付きで、野菜をたっぷり使って、あんかけ風に調理してありました。紹興酒によく合って、今日も満足がいく晩酌になりました。食事を終えようとした時、皿一杯に果物を盛ってきてくれました。頼んだわけではなく、デザートの蜜柑のサービスでした。
 昨日よりほんの少しだけ高い料金でしたが、チップは強く辞退されました。結局、昨日と同じ支払いになりました。


  台北駅近くの街角で
 穏かな顔付の人多かりし秘たる意志の強きを思う

 首輪付け大人しき犬吠もせずトコトコトコと町を歩きぬ

2010/08/29 11:08:22

2004秋、中国旅行記5(28):11月4日(1)上海・ブラ...

<2004年11月4日(木)>

 昨日の夜、杭州からの遅い帰宅でした。それでも、足裏マッサージに出かけました。そんなことで、今朝はゆっくり起きることにしました。揃って朝昼兼用のブランチを食べてから、今日の行動を開始することを、昨晩約束してありました。

<朝の洗濯>
 朝の時間を利用して洗濯をすることにしました。洗濯機の場所などは初日にお聞きしていました。8泊9日の日程でも、途中で洗濯が出来れば、リュック一つの身軽な旅が楽しめます。
 ブランチの店に出かけるのは、11時半と昨日決めてありましたから、9時少し前に起きても十分に時間の余裕がありました。地下の娯楽室の横の洗濯機を借りました。
 使い方は、少し日本の洗濯機とは違っていました。1階の大画面テレビを見ながら、時々、地下室に洗濯機の状態を見に下りていきました。自動洗濯機ですが、半自動くらいの監視付になりました。干し場は、泊めていただいた和室の横のベランダにしました。折りたたみの物干しは、1階の駐車場から運んできました。 これも初日に教えてもらっていました。ベランダは程よい風が吹いて、まさに洗濯日和でした。今回に限らず、旅先で天候などを見ながら、洗濯した後、うまく乾いた時などは一寸した快感です。そうでない時は、ドライヤーなどを使って悪戦苦闘です。

<ブランチ>
 ブランチの店は道路を渡った直ぐ近くでした。少し早い時間でしたからほかにお客はなく、マスターも出勤前でした。しかし、注文は直ぐにできました。黒人系の外国人だそうですが、中国語がうまい人のようです。
 この時の注文の品は、カレー、トンカツ、ビーフシチュー、スパゲティなどでした。ご飯は別の四角いお碗にピクルスと一緒に出されました。スープも同じものが全員についていました。
私が食べたカレーはまずまずでしたが、ご飯の量が多かったので、少しだけ残しました。スパゲティは一寸変わっていて、きしめんとそっくりの平べったい形をしていました。
 このお店の昼はランチ、夜はお酒も飲めるようです。内装などもお洒落で、綺麗な花も飾ってありました。今回は夜に飲みに出かける機会がありませんでしたが、夜にも一寸立ち寄ってみたい雰囲気の店でした。

<車の中から市内見学、上海で一番短い小路>
 ブランチの店から一旦戻って、今日の出発は午後でした。最初は車の中から上海市内見学を楽しみました。
 公園の一角で目立たない場所に東西の道路と交差する袋小路の「徳昌路(デチャンルー)」があります。東進しながらバックでその小路に入った途端、白いワイシャツの痩せ柄の男性が出てきて、「ここに入ってはいかん!直ぐに出なさい!」と言った仕草で飛び出してきました。
 バックで進入したので、出るのは簡単です。直ぐにその小路を去りましたが、特別な方の住居のようです。奥行き25m程の「上海で一番短い小路」と形容してよい不思議な場所でした。

<人民広場、南京路見学>
 車を降りたのは人民広場(レンミン・ゴンウエン)でした。目の前に上海博物館(シャンハイ・ボーウーグアン)、左手に上海美術館(シャンハイ・メイシューグアン)などが立ち並んでいました。上海人民政府の建物もここにありました。この付近が上海の中心地、名古屋で言えば栄と丸の内の官庁街を纏めたような場所でしょうか。Enちゃんから主な建物を、一通り説明をしてくれました。その後、南京路へ移動しました。
 南京路(ナンチンルー)について、ガイドブックを引用しながら表現しますと、「100年以上、上海を代表する繁華街、租界時代の重厚な建物と、近代ビルが混在し、ショッピング、グルメの最先端を行く観光スポット」となります。歩行者天国となっていて、人並みが絶えません。
 ところが、歩行者天国だと言っても、油断していますと「観光ミニバス」が走って来て、びっくりさせられます。この観光ミニバス乗り場は河南中路と貴州路の2箇所だけで、途中下車は出来ないようです。赤色や黄色などに塗られ、電車のように連結されていました。
 子供電車のようで、乗りづらいようですが、旅行での経験と割り切って、その内、乗車してみようと思っています。歩行者天国を、一味違った雰囲気で楽しめるかもしれません。運賃は2元です。

<飲茶のお店>
 この日、Enちゃんが案内してくれたのは、第1陣と訪れた唐韵茶坊とは別のお店でした。外見はモダンな造りのように見えて、なかなかシックな内装になっていました。ガイドブックでも確認しましたが、残念ながら、お店の名前は分かりませんでした。
 店内のいたるところに本物の仏像が飾られ、個室には重厚なアンティークの家具類が置いてありました。仏像や仏画は何体も写真に納めましたが、残念ながらこの冊子に収録する余裕がありません。別冊写真集の補遺にでも収録しようと考えていますが、まだ具体的ではありません。
 ところで、このお店でも私はウーロン茶を戴きました。お店の人がお茶の淹れ方を披露してくれ、その後は沸かしたお湯を使って各自で淹れることになりました。詳しくは別冊写真集3に収録しておきました。
 ライトアップされた広い庭にも仏像が安置してありました。ガラス容器に納まった仏像もありましたから、かなり貴重な品もあるのでしょう。お茶を戴いた後、庭の仏像も見学しました。別棟のお土産コーナーがあり、ここで花茶等をお土産用に入手しました。お茶を購入すると、サービス品として「??小僧」の焼物が貰えました。水に浸した後、頭から熱湯をかけると、「??」が勢いよく飛び出してきます。

<再び四川料理>
 Taさんは余り辛い料理はお得意ではないようですが、この創作四川料理のチャオ江南(チャオジャンナン)のお店は別のようです。すでに何度か経験されているようでした。
 今回は人数も少なく、1日に来店した時の個室とは別の1階のテーブル席に案内されました。四川料理は油断大敵です。見た目に辛くない漬物でも、一瞬、口の中が火事現場になります。
 この日も、新宅に戻って後、締めくくりは足裏マッサージです。住宅構内に戻る時の「53番」の「ウォシーサン ハオ」はマスターできました。


 緑なす芝生を飾る紅白の花の借景摩天楼

 熱き湯に開く花茶の芳しき香り漂う古き茶室に

2010/08/29 10:08:36

2004秋、中国旅行記5(2):10月30日(1)上海・新宅...

<2004年10月30日(土)>

 来年の2月中頃からは、常滑沖のセントレア空港から出発になりますが、今回は残り起こり少なくなった、小牧の名古屋空港からの出発です。

<名古屋空港集合>
 出発の名古屋の朝は小雨でした。平針のDaiのお店の前を待合せ場所にして、Na先生とHi君、Ko君の4人でタクシーを乗り合せて名古屋空港へ向かいました。
 最初は下道を走る予定でしたが、思ったより道路が混んでいました。それで、途中から予定変更して、一社のインターから入って東海北陸道を北へ向かいました。その予定変更が功を奏して、待合せ時間に少し余裕を持って名古屋空港へ着きました。運転手さんが、高速を下りた後も、信号の少ない近道を走ってくれたためでもありました。
 Enちゃんはすでに上海に飛び立って、現地で出迎えの準備をしてくれていました。それでこの日は、Ogさん一人での旅立ちでした。しかし、バーベキュー用の炭など、たくさんの荷物がありましたので、家も近いDaiのHsさん達と乗り合せての名古屋空港集合でした。
 Miちゃんご夫妻、Myちゃんとも予定通り合流でき、早速、搭乗手続きをとりました。この日、名古屋空港は混んでいませんでした。出国審査の前に揃って軽い食事をしました。総勢10名でした。フライトは14時15分発のCA422便、中国東方航空でした。

<快適な空の旅>
 上海からの到着便が遅れましたので、出発も30分ほど遅れました。このCA422便は、上海からそのまま重慶まで飛んでいるようで、遅れて到着した理由も、この乗継などが影響したかもしれません。
 名古屋と上海との時差は1時間、約2時間半のフライトで上海に到着しました。名古屋を発ってしばらくは厚い雲が下方の視界をさえぎっていましたが、中国大陸に近づくに連れ、雲は切れ視界が広がってきました。
 名古屋空港で軽い食事にしていたので、機内ではワインを楽しみながら快適な空の旅に身を委ねました。ジャンボ機ではありませんでしたが、機内はほとんど満席状態でした。Ogさんと隣りあわせで座った席は、非常口の横でしたから、十分に足を伸ばせました。この点でも快適な空の旅を満喫できました。

<上海空港到着、新宅へ>
 上海空港ではEnちゃんが出迎えてくれました。バッゲージ荷物の受け取りに向かう途中で、向かいの階で手を振ってくれたのを、Og合さんが教えてくれて、私も気が付きました。全員大したトラブルもなく、無事入国審査を終えたようです。空港へはEnちゃんが手配したマイクロバスが迎えに来ていました。運転手さんはチョウさんと言う方でした。大型車などの運転経験もある人で、この後、最終日まで安心して乗せていただくことができました。
 空港から上海市内の閔行区にある「君臨頤和花園」までは高速道を走って一時間とはかかりませんでした。途中、少し混んでいた区間がありましたが、これは一寸した交通事故が原因だったようです。
 新宅ではEnちゃんのお母さんのYa先生が出迎えてくれました。それともう一人、木の柵にしがみ付いたお猿さんも出迎えてくれました。こちらは写真編をご覧ください。
 荷物を運び込んだ後、早速新宅を案内していただきました。地下1階、地上3階の実に立派な住まいでした。内装の材料や、照明器具、家具などは1年以上かけてEnちゃんが選ばれたものです。仕上げの前に、Ogさんが日本からお連れされた建築家の人も感心された選択だったようです。案内していただきながら、早速、何枚かの写真を撮らせていただきました。
 中央階段を中心に、中二階、中三階がありました。それで、慣れない内は、今いる階がどの階なのかは、とっさには分からない造りになっていました。各部屋の寝台、家具なども立派なものでした。
 浴室、シャワーも3箇所にあり、大勢がお邪魔しても十分な設備となっていました。地下室は娯楽室で、ビリヤード、マージャン、ダーツのほか、ホームバーも楽しめるようになっていました。今回、洗濯機をお借りする予定なので、地下室の横の洗濯室も、ついでに案内してもらいました。

<新宅での上海蟹の宴会>
 料理、食材などは別冊写真集に纏める予定です。しかし、このご自宅でのディナーは本冊で詳しく紹介することにしました。
6月の第1次訪問団の時の写真を拝見していましたから、予備智識はありましたが、実に素晴らしいディナーでした。Enちゃんのお話だと、この時の写真は、ディナー出張サービス会社のホームページでも紹介されているそうです。
 今回は10名でしたから、中2階の食堂にセットされましたが、30名以上の6月の時は、1階に屋台までセットして大掛かりでした。2名のシェフがビデオに写っていました。
 料理の内容は写真編に譲るとして、早速、上海名物の大閘蟹(ダージャーシェ、上海蟹)を戴きました。家で用意されたのは、大量の食用油だったようです。いくら食べてもお腹にもたれない理由が、この新鮮な油の使い方にもあるようでした。食事の進み具合に合わせて、出来立ての料理を次々に作っていただき、最高の状態でグルメを存分に楽しむことができました。
 特級調理師の李さんは、そのお店のシェフの最高位にあるらしく、味付けも皆さん大満足でした。最初にはビールを戴きましたが、その後は紹興酒でした。やはり、中国料理には一番合うようです。
 この日、Ya先生が付きっ切りでお世話していただいたことも感激でした。ほかにご予定がおありとのことでしたが、遅くまで何か時を遣っていただきました。心温まるおもてなし、本当にありがとうございました。

<スーパーマーケットへ>
 夜は全員揃って向かいのスーパーマーケットに出かけました。閉店時間が迫っていましたので、お客の姿はまばらでした。しかし、並べられた食材は豊富でした。夕方ご馳走になった黒ラベルの紹興酒がおいしかったので棚を探しましたが、ちゃんとおいてありました。日本では見かけない意匠の紹興酒ですが、日本でも売れ筋になるかもしれません。
 この夜は、本格的な買出しに向けての下調べといったものでした。事実、皆さんはこの後、このお店で相当の買い物をされたようです。品数が豊富だし、何しろ日本の値段と比べれば、格段にお値打ちです。比べるというより、比べようがないというのが皆さんの感想でした。今回の旅行で、一番好きになった場所が、ここだった人も居たようです。

<夜はマージャンとビリヤード>
 スーパーマッケットの買い物から戻っても10時頃でしたから、この後、大画面テレビや、地下の娯楽室でマージャンやビリヤードを楽しみました。少々、大きな音が出ても周り近所には、ご迷惑がかからないようでした。近所から聞こえてくる音も、屋外に飼われているらしい犬の鳴き声だけでした。
 これだけセキュリティがしっかりした住宅地だと、ワンちゃんの出番もなくなって、手持ち無沙汰になったのでしょう。精一杯自己主張して、鳴いているようにも聞こえました。


 近き国旅の疲れは忘去り寝る間を惜む夜は更ゆく

2010/08/29 10:08:33

2004春、台湾旅行記3(2):3月26日(1)台北・総統選...

<2004年3月26日(金)>

 オールフリータイムの台北2泊3日の旅行プランは、一応「気軽に台北3日間」のタイトルが付いていました。しかし、実質はホテルの予約と、飛行場からホテルまでの送り迎えだけを頼んだスリムな旅行プランです。中身も個別にオンライン検索で予約をとって貰った、いわば私専用の手作りプランでした。
 その旅行プランは、ハワードプラザホテルの一人泊の追加料金2万6千円を含めて、ほぼ10万円で仕上がりました。

<HI*の現地ガイドさん>
 HI*の現地ガイドさんは20代半ばくらいの女性の方でした。私以外にも何組かが合流し、マイクロバスでそれぞれのホテルに送ってもらうことになりました。しかし、旅行社を使ったときのお決まりで、小一時間は免税店のお付き合いをさせられました。到着してすぐに買い物をすることはありませんし、免税店で買いたい品物もありませんから、外へ出て時間を潰したり、烏龍茶をご馳走になって時間を過ごしました。前回もお付き合いした何時もの免税店でした。
 ガイドさんはこの免税店に着くまでの時間に、いくつかの注意事項を話してくれました。

 「生水を飲まないようにしてください」

 「貴重品はフロントか部屋のセーフティボックスに仕舞ってください」

 とかの、お決まりの話が最初にありました。
それに加え今回は、次の注意事項が付け加えられました。

 「日本でもテレビ等でご存知かもしれませんが、総統選挙の後で大もめになっています。交通規制で市内観光が遅れたりしますので、あらかじめご承知置きください」

 「総統府などには絶対に近づかないでください。万が一の場合、HI*としては責任がもてませんのでよろしくお願いします」

 等の注意でした。市内観光の法は関係ありませんでしたが、総督府の話はもう少し詳しく聞きたかったので、

 「西面(シーメン)から龍山寺(ロンシャンスー)辺りは問題ないですか?」

 「西面から龍山寺辺りは、鳥インフルエンザ問題の中心地だったようですが、今は心配ありませんか?」

 などを確認しました。返ってきた答は、

 「龍山寺付近はだいぶ離れていますので大丈夫です。西面は総統府に近いので立ち入らないようにしてください」

 「鳥インフルエンザ問題は収束しましたが、念のため鳥料理は避けた方がいいかも知れません」

 と、言ったことでした。基本的には私自身の自己責任なので、 ガイドさんの話は参考程度にさせてもらいました。ついでに、国際空港を出るリムジンバスの乗り場も教えてもらいました。ガイドさんは、

 「マイクロバスに乗ってもらった場所のすぐ左手にあります」

 と、教えてくれましたが、ついでに、

 「次回は、私の仕事がなくなりそうですね?」

 と、質問の意味をすぐに悟られてしまいました。

<ハワードプラザホテル>
 国際空港からホテルまでは1時間ほどで着きますが、おまけの免税店巡りがありますから、出発して2時間はかかりました。免税店からは、ほかのメンバーより近い位置で順路に当るため、先に降ろしてもらいました。予約の確認をし、部屋の鍵を預かったところで、早々にガイドさんと別れました。その他に確認しておくことは、帰りの日の迎えの時間だけでした。
 前回の2002年12月の旅行で利用したハワードプラザホテルは、MRT駅から近く便利でしたから、今回も指定で予約を取ってもらいました。その分一人部屋使用で1泊当りの追加料金が1万3千円と、少し割高でした。外観は地味なデザインで、色も地味なブラウンが基調になっています。しかし、設備は申し分ありませんし、バイキング方式の朝食もなかなか立派です。中国名では「福華大飯店(フーホアダーファンティエン)」と呼ばれています。
 ガイドブックから少し引用しますと「地下1階から地上4階まで85店舗のブランド品ショップが並ぶ大型ホテル」と紹介され、更に「コーヒーラウンジの天井は吹き抜けになっており、噴水や滝が配されている。客室は重厚な家具で品よくまとめられている」とありました。
 また、2001年版のガイドブック(旺文社の個人旅行・台湾)には、5800~7600元と宿泊料金が記されていました。やはり、1泊1万3千円の追加料金は仕方ないようです。現在はインターネットでの予約も出来るようになっています。部屋数606室の規模です。
 ついでに、このガイドブックでは丸山大飯店の宿泊料金は4000元からとありました。スウィートルームの値段は聞くまでも無いことです。日本でもよく知られた中国建築のこのホテルは、1995年に火災に遭い、しばらく営業を中止していましたが、今は再開されています。見学の対象となる台北名所でもあります。
 国際空港からご一緒だった同世代のご夫婦の旦那さんは、

 「丸山大飯店は素晴らしいホテルですが、街へ出るのに不便で仕方ありませんでした」

 と話されていました。

 「それで、今回は交通の便のいい、街中のホテルにしました」

 とも話されていました。これは、空港から市内へ向かう途中で、丸山大飯店が丘の上に見えてきた時、ガイドさんが説明をしてくれた後での会話でした。

<久しぶりの龍山寺>
 ハワードプラザホテルにチェックインした後、すぐにMRTを使って龍山寺にやって来ました。この日は、まだ何回もMRTに乗る予定なので、早速、忠孝復興駅で一日乗車券を買い求めました。何回も回数券を買ったことがある駅です。ワンディチケットの150元の値段は以前と変わっていませんでした。自動改札口は通らず、その窓口の左手を開けてもらって入場するのも同じでした。
 この忠孝復興駅に向かう途中、ホテルの界隈で面白い街路樹の花を見ました。花の形は白木蓮と同じなのに、色は赤色をしていました。いくつかの花弁が歩道に落ちていて、手にとってその花を観察することができました。普段は気がつかなかった街路樹です。
 龍山寺までは乗換えなしです。台北市の名刹、龍山寺はお決まりの観光コースになっていますので、日本人観光客によく出会います。この日も大勢の地元参拝客の合間に、何組かの団体客がやってきていました。昼食は遅くなりましたので、龍山寺界隈の屋台で50元の海苔巻きと稲荷寿司のパックを買って済ませました。
 この見慣れたお寺で、最初に「おやっ!」と思ったのが本堂でした。今までは実物大の写真パネルが設置され、再建工事が進められていたからです。今回は見事に再建がなって、以前よりも大勢の参拝客で賑わっているようでした。何度も写真を撮ったお寺ですが、改めていろんな角度から写真を撮り直しました。
 龍山寺は、台北では最古の寺院で、1738年の創建とされます。ご本尊は観音菩薩です。お賽銭を払わないお寺、と言うより、賽銭箱に小銭を入れてはいけないお寺であることを教えてもらったことがあります。今回もそのアドバイスに従いました。奥の院では道教の神々が祀られていて、道教と仏教が仲良く共存しているお寺です。
 創建以来、台風、地震、戦火で何度か損壊しましたが、そのつど再建されたとされます。第二次大戦の戦禍も免れることは出来ず、戦後に復興されたのが現在の建物です。今回の本堂再建は修復工事だったようであり、金箔をふんだんに使って内装され、眼を見張るような賢覧豪華な造りとなっていました。
 この日、もう一度夜に参詣しましたが、ライトアップも一段と見事になっていました。線香の煙と蝋燭の炎が絶えず、夜も大勢の参拝客で賑わっていて、相変わらずでした。檀家の人が、火が付いた大きな線香を渡していましたので、私もこれを貰って参拝しました。長さが50cmはあろうかと言うジャンボ線香です。
 線香立てには灰が積み重なっていて、ここへ軽く投げ入れると、うまく線香が立つようになっています。見様見真似で試してみましたが、手で立てるより簡単に出来ました。何より熱い思いをしないで済みます。
 寄進の図書類も相変わらずでした。本堂の再建を祝ってのためでしょうか、以前よりはるかに多くのお経の本や観音菩薩などのプロマイドが積み上げられていました。今回も、小さなお経の本1冊と、トランプほどの大きさの20種類ほどのプロマイドを頂戴してきました。有難いことです。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏。

<士林夜市>
 毎回、いくつかの夜市を見学しています。屋台や市場を見学するのが旅の楽しみです。MRTの回数券を最初に入手しましたので、MRTで行ける所なら、取り敢えず何処へでも足を運ぶと言うこともありました。龍山寺駅から士林(シーリン)駅までは、台北駅での乗換えとなります。
 ガイドブックから少し引用してみます。『士林は台北の郊外に位置する文教地区で、最近ではベッドタウンとして開発が進められている。かつては籐家具の街として知られてきたが、最近では士林夜市の街として有名になった』と紹介されていました。
 確かに夜市を歩く人は、若い人が圧倒的に多い。個人としては、飲食店は多いものの、アルコールが飲める店が少ないのが残念な点です。
 MRTでは士林か剣譚で降りればよく、士林駅からは高架の西方面を南下、剣譚駅からは西方面を北上すると士林夜市にたどり着くことが出来ます。今回は剣譚駅のほうでMRTを降りました。台北駅を出て、しばらくしますと、MRTは高架になってきます。
 軽く飲める店が見つかったら、士林でも飲んでみたいと思いましたが、なかなか注文に合った店は見つかりませんでした。薄暗いうちに士林夜市にやってきましたが、すっかり日が落ちて晩酌の時間になりましたので、元来た経路で、華西街夜市に戻りました。

<華西街観光夜市>
 昼のうちに一度この界隈にやって来ましたので、この日、二度目の華西街観光夜市見学です。鳥インフルエンザ問題では、この近くの西面(シーメン)から華西街観光夜市一帯が封鎖された様な話を聞いていましたので、もう少し詳しく様子を探っておく考えもありました。
 以前目撃した中で、生きた鳥などを籠に入れ、積み上げて売っていた一角がありました。しかし、かなり小まめに回ってみたものの、今回は見つかりませんでした。その代わり、道路拡幅工事らしい未舗装の道路に脇に、取り壊された商店街を2箇所ほど見つけました。その辺りが鳥インフルエンザ騒動の影響を受けて、手が入った部分かも知れません。
 アーケードの中も一通り見て回りましたが、蛇料理の店は何軒かそのまま営業していました。当然ながら、爬虫類は鳥インフルエンザやサーズ問題には無関係だったようです。
 ところで、この夜市にやって来たのは、晩酌が主目的です。明るいうちに念のため、なじみの店の位置を確認しておきました。その時間、店はまだ閉まっていたものの「伝統」の看板に見覚えがありました。暗くなっても間違えずに「伝統」の店を探すことが出来ました。と言うより、暗くなってからの方が探しやすいものです。
 店先に顔を出しますと、すぐに店のママが気付いてくれました。今までは30代くらいの男の人が中華鍋を使って料理をしていましたが、今回はママが料理を作っていました。1年半前に見た時、その男の人は、利き腕の手首に包帯をしていましたので、「腱鞘炎でも起こしたのでは?」と心配していましたが、その勘が当ってしまったようです。
 ママがいつもの通り、ガラスのネタケースの品を示してくれましたので、その中から3種類を選びました。席はいつもの壁際の場所が空いていました。その場所もママがよく覚えてくれていて、すぐにその席に案内してくれました。
 ネタケースで選んだ品は、定番の貝のピリカラ漬け、茹でピーナッツと、それに捌いた蟹でした。多分、渡り蟹でしょう。飲み物も、いつものようにビール1本を飲んだ後、紹興酒を1本頼みました。
 晩酌を終わりそうになった時、いつものようにデザートのプレゼントが出てきました。見た目はトマトで、切り方も同じでした。しかし、歯ごたえと味はかなり違っていました。野菜と言うよりフルーツ感覚でした。翌日の基隆見学の時、果物屋さんの店先で知ったことですが、この食物は「黒柿」の名前でした。
 「ニーハオ」と並んで僅かに使える中国語の「シェ シェ」を使ってデザートのお礼を兼ねて勘定を頼みました。請求されたのは450元でした。ママはメモ用紙に数字を書いてくれていました。日本円で1500円見当です。お釣りの50元をチップで渡してお店を出ました。
 チップを払うような高級な店ではないですが、いつも美味しく戴くお礼の積りです。これでも、日本円では、2000円からお釣りがくる勘定であり、極めてお値打ちです。10回近くこの店を利用しましたが、一度も日本人を見たことがありません。私のお気に入りの庶民的な店です。晩酌の後は、夜の龍山寺を見学して、一旦ホテルに戻りました。

<夜のテレビ報道>
 今回の旅行では、定期的にテレビのお世話になりました。ニュース番組が伝える、総統選挙後の大もめの台湾政情から眼が離せなかったためです。テレビでは選挙疑惑、殊に銃撃疑惑を巡って大規模な抗議行動が起きており、フルタイムで報道がされていました。
 テレビでは、連戦候補とその支持者、陳水扁候補とその支持者の主張を交互に報道したり、有識者たちによる討論、物価問題、失業問題などの解説を取り上げていました。その番組の中でも、慶福門、中正紀念堂の現場状況を、画面を分割してリアルタイムで報道していました。日本政府の反応は伝わっていないようでした。もっぱらアメリカ政府の反応を番組に挟んでいました。
 テレビで報道される範囲では、流血騒ぎになるような危険な状況は考え難かったので、一度現場状況を見に出掛けることにしました。パスポートなどは部屋のセーフティボックスに入れて、出来る限り身軽な格好で出掛けることにしました。カメラも上着の横ポケットに入れて、完全なフリーハンドにしました。

<夜の中正紀念堂>
 テレビで見る限り、抗議行動は整然と行われており、家族ぐるみでの参加者も多いように見受けましたので、現地の状況を見に出掛けることにしました。総統府前広場が最前線であり、中正紀念堂にも多くの人が集まっているとの報道も繰り返されていました。総督府前広場は、空からの取材を含めて「慶福門」の呼び方で報道されていました。
 最初に出掛けたのは、中正紀念堂の方です。何度も乗ったMRTを使いました。台北駅で乗り換え、南へ二つ目の中正紀念堂で降りました。この辺りも、HISの現地ガイドさんから立ち入りをしないよう注意されていた区域です。
 電車の中でも抗議集会に出掛ける人を見かけました。テレビで見た黄色のビニル雨合羽と、台湾国旗がシンボルでした。若い人のグループや家族連れなどが目に付きました。車内全体を見回しますと、やや混んではいたものの、満員ではありませんでした。
 地下鉄を降りて少し北に歩き、大中至誠門に向かいました。雨は降っていたものの、傘を差すほどではありません。大きな国旗を持った若い人達の後ろを歩きましたが、悲壮感や切迫感は無く、やや早足程度で歩いていました。至誠門は開放されていました。台北のシンボルの一つであるこの門は、煌煌とライトアップされていました。
 脇の門を潜る時、守衛さんが詰めているのを確認できましたが、規制をする気配はまったく無く、自由に出入りが出来ました。紀念堂の中には電飾の宣伝カーが停められ、屋台もいくつか出ていました。全体に静かな様子で、音を出していたのはこの宣伝カーだけでした。
 至誠門を入った左右には、国立の音楽堂や劇場があり、室内には明かりが灯っていました。天候を考えて、この中で集会が行われたり、休憩所に使われているのではないかと推測しました。しかし、中まで入って確認することは、さすがに躊躇しました。離れた場所から、デジカメに収めました。
 この場所にやってきた人達は、総督府前広場の方に移動をしているようでした。私もこの流れに乗って移動をしました。と言っても僅かな距離です。後で地図で確認したことですが、中正紀念堂の北隣が国民党本部で、国民党本部西隣の五差路に慶福門があります。この門が、総督府からは500m足らずの位置にあります。

<国民党本部>
 人の流れに乗ってやって来たのが国民党本部前でした。正面には孫文の筆になる掲額「天下為公」がありました。この場所から慶福門、総督府前のバリケードまでは、人で溢れかえっていました。
 国民党本部の正門は開け放たれており、誰でも自由に出入りが出来ました。中に入ると、係りの人が鉢巻やら国旗を渡していましたので、私も記念に貰ってきました。これを手にしていれば、抗議集会に紛れ込んでも、不審に思われることが無く便利でした。
 党本部の中も人で溢れていて、テレビで状況を確認する人達や、ホールのような部屋には、次の行動に備えて椅子で仮眠する人達がいました。壁や柱には銃撃事件の疑惑を写真入で掲示してありました。これらの様子を、目立たないよう、フラッシュを焚かずにデジカメに収めました。
 国民党本部に掲示してあった、銃撃事件疑惑に関しては、写真やタイトルから判断しますと、「自作自演説」のようでした。少なくとも陳陣営が打った起死回生の戦術であることを糾弾しているようでした。殺気だった重苦しいものではなかったものの、どの支援者の顔にも緊張感と高揚した雰囲気が漂っていました。

<バリケードの最前線>
 国民党本部見学の後は、抗議集会の最先端まで足を運びました。国民党本部の前が慶福門であり、ここを西へ500mほど進めば総督府の正門に達します。その中間で、総督府の周を囲むようにバリケードが敷設されていました。コイル状に巻かれた鉄条網と、車止めが使用されていました。その内側を大勢の機動隊員が固めていました。
 23時半頃になると、後方に何台もの機動隊の投石防止のネットを付けた車が連なって待機し、大型のクレーン車が近づいてきました。バリケードの向うでも、盾を持ち、投石用の保護マスクが付いたヘルメット姿の機動隊が整列して備えていました。先刻までは、全員が整列まではしていなかったはずです。横隊になって最前列を固めた人以外は、先程までは多少はリラックスした様子でした。いよいよ、強行排除の時間が切迫している雰囲気になってきました。
 海外旅行中に、この強制排除に遭ったり、トラブルに巻き込まれるのは避けたかったので、これを機に総督府前広場を離れました。小雨はまだ降り続いていました。最寄の駅である台大病院前から乗った遅い時間のMRTは、がらがらに空いていました。

2010/08/29 10:08:32

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